[4543] 歴史秘話その2 part-5 投稿者:金馬です 投稿日:2010/07/05(Mon) 15:17
- いよいよ最終回になりました。さて、飯盛山で自刃した20名の白虎隊のなかに、井深茂太郎がいますが、この一族からは後にソニーの創業者となる井深 大が生まれています。また、石山虎之助という少年もいましたが、彼は井深家からの養子であり、ソニーの井深大の祖父である井深基はこの虎之助の実の兄であります。
さてさて、いよいよ萩・明倫館の近くの唐樋町の地蔵堂の中にある「白虎隊自刃の図」の話しとなります。これは石版画であり、題名は「忠臣義士」と書き込まれています。この地蔵堂がある狭い小道は「溝部横丁(町)」(みぞべよこちょう)と呼ばれ、地蔵堂は「唐樋地蔵堂」とか「火除け地蔵堂」と称せられているとのことです。(明倫小学校の頃、毎日その側を歩いて通学していたのですが、今回初めて通りの名前や地蔵堂の名前を知りました)
さて、この地蔵堂は、いつ、誰が、何のために建てたのでしょう?
もともとは、明和5年(1768)に創建された龍福寺と言う律宗寺院の境内にあったそうです。1768年と言えば、白虎隊自刃の丁度100年前になりますね。幕末に描かれた「八江萩名所図画」(やえはぎめいしょずえ)に載っているそうです。寺の創建時に地蔵堂も建てられたのでしょう。その後、龍福寺は焼失し、明治になって跡地に寿座という芝居小屋が建てられ、その寺の供養のために寿座の西南隅に地蔵堂が設けられたと、「萩の百年」に記載されています。この地蔵堂が江戸時代の龍福寺にあったものか、新設されたものかは不明です。昭和14年の「長州新聞」によれば、寿座も焼失しますが、地蔵堂のみは焼失を免れたそうです。その後昭和24年に地蔵堂は西側200メートルの現在地に移築され、その際「忠臣義士」も一緒に移されました。前の場所は今の税務署あたりだそうです。ともかく、その因縁より別名「火除け地蔵堂」として、近所の住民から親しく拝められ清潔に掃除もされて保存されているのでしょう。
では、この「忠臣義士」は、誰が、いつ、何のために、どこから、どのようにして、萩にもたらされたのでしょうか?
昭和14年の「長州新聞」によれば、地蔵堂の近くに住んでいる元陸軍中将藤田鴻輔が「7,8歳頃から忠臣義士が掲げてあるのを記憶している」とのこと。藤田は明治9年の生まれでしたので、遅くとも明治15年前後には地蔵堂に掲げられたことに成ります。この藤田は村田清風の顕彰碑を建立したり、久坂玄瑞歌碑に揮毫したりしています。
また、同年の「長州新聞」によれば、この藤田が「忠臣義士」の来歴を調査していることを聞いた「吉武常一」(地蔵堂のある唐樋町出身)と「村田善次郎」が協力し、この図を修理し、市川一郎萩市長の書を付けて、ガラス張りにして永年保存できるようにしたと報じています。こうして、昭和14年に修繕された「忠臣義士」の額が現在もそのまま残っているわけです。しかし、誰が萩に持ち込んだのかは、今も不明のままです。
ただし、「忠臣義士」の説明書きをよく読めば、”原書 渡辺文三郎、石膏人 御園 繁、浦井韶三郎の添え書きがあると記載されています。この渡辺文三郎は何者かと言えば、幕末日本の風刺漫画「ジャパン・パンチ」の作者であるワーグマンより洋画を習った五姓田義松(ごせだよしまつ)に師事していた洋画家だそうです。文三郎の妻、渡辺幽香(ゆうこう)の作品が横浜美術館に常設展示されているそうですが、2000年の特別展「幕末・明治の横浜展」の図録に、あの「忠臣義士」が紹介されているそうです。この石版画は1877年(明治10年)から1882年(明治15年)に「玄々堂」から刊行されています。「玄々堂」とは1875年(明治8)に京橋で開業した銅版画と石版画を本格的に印刷した会社です。ここからは、額絵と呼ばれる石版彩色の一枚刷りが多く刊行され、店内の教場では多くの西洋画の指導もされていました。この「忠臣義士」が刊行された時代は、油絵でも版画でも歴史主題が多く描かれたそうです。
「忠臣義士」の図を描いた渡辺文三郎とはどんな人?
嘉永6年(1853)に備中(現岡山県)に生まれ、少年期に丸山派の日本画を学び、漢学塾・興譲館(今では女子高駅伝の名門校?)に通学する。明治6年数学の学習のため上京し、五姓田義松に師事し、明治9年義松の妹勇子(後の幽香)と結婚する。明治10年第一回内国勧業博覧会に絵の作品を出品し、同年東京英語学校(後の東京大学予備門、第一高等学校)の教師となり、油絵・水彩画多数を作成し、かつ数学の道も志しています。
それでは、何故文三郎は「忠臣義士」の図を描いたのでしょうか?
文三郎が師事した義松は天皇巡幸にお抱え絵師として随行しているし、義松の妹で文三郎の妻である幽香も父親芳柳も明治天皇の肖像画を沢山描いており、天皇家とは近い間柄でした。しかし、明治10年代から20年代にかけて、あまりに急激な近代化に対して、時代に逆行する風潮もあり、美術の世界でも歴史主題が多く採用された頃でした。文三郎は備中出身なので、もともとは佐幕派であったはずです。したがって、彼自身が描きたかったというより、同郷の藩出身者他から依頼があったのかもしれません。当時の画家は自由に作品は出せず、描いてほしい人の発注が必要であったそうです。この「忠臣義士」は明治24年日本で最初の女性石版画家である岡村政子により模写され出版もされているとのこと。
作者とその時代の背景は分かりましたが、誰がその石版画を萩の唐樋地蔵堂に持ち込んだのか?この謎だけは残りました。
明治維新後の前原一誠による「萩の乱」のときに、警視庁の巡査で会津出身者であるものは、乱の鎮圧のため長州出張を命じられたとき、「戊辰戦争の長州人に対する恨み骨髄を返すため、敵を討つつもりで萩に向かったけれど、到着時には既に鎮圧されており、実に残念で溜まらぬ」と言っていたとのエピソードも残っており、そうした会津の人が「忠臣義士」を携えて萩に向かったという想像も全くでたらめとはいえない感じがします。
2010年4月の京都での「白虎隊の会」設立会では、萩からこ「忠臣義士」の図のコピーが持ち込まれ、今でも市民レベルでこの図のある地蔵堂は綺麗にされていることが紹介され、長州・会津の人々の融和に大変役立ったそうです。
さて、この「忠臣義士」の図では、自刃する白虎隊は左側を見て会津若松城の炎上を見ていますが、会津で見るほとんどの白虎隊の絵は右を見ており、左右が逆になっているのが不思議です。このヤッホーに写真入りで投稿している方にお願いですが、ネットで「萩温泉旅館協同組合/観光案内/唐樋地蔵堂」をクリックして1/2ページ下部の「忠臣義士」の絵をヤッホーに貼り付けてもらえませんか?小生の説明が現実的にお分かり頂けると思いますので。(小生その手の処置が苦手です)
http://www.hagi.ne.jp/kanko/meirinkan_02.htmlです。
最後に、この紹介に活用した資料は以下の通りです。
web magazine "mannen"
幕末リサーチプロジェクトα
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/s_denki
風の人:シンの独り言
「白虎隊の会」各種発行資料
大阪龍馬の会
下関市記者発表資料 平成20年9月18日
wikipedia 白虎隊
以上、長々と書きましたが、最後までお付き合いくださった方には、心より感謝申し上げます。